最初の大規模な芸術展覧会は1921年にエルサレム旧市街のダビデ・シタデルで行われ、その展示作品の多くは、ベザレル美術学校出身の画家の作品で占められました。ですがその後まもなく、ベザレルの時代錯誤のナショナル・オリエンタルな物語的作風は、ベザレル美術学校内の若い画家からも、また新たに移民してきた芸術家からも批判されるようになり、「ユダヤ」芸術ではなく「ヘブライ」芸術とも言える絵画の模索が始まりました。こうした新鋭の画家たちは新たな文化的アイデンティティを求め、国民再生の源として国家を捉え、イスラエルの風景の明るい日差しと輝く色彩を重視しつつ、中東の現実的な日常を描き、シンプルなアラブの生活様式などのエキゾチックな主題を、極めて原始的な手法で強調しました。例えばイスラエル・パルディ、チオナ・タゲル、ピンハス・リトビノフスキー、ナフーム・グットマン、レウベン・ルビンの作品などがそうです。1920年代の中期までに、著名な芸術家の多くは1909年に作られた動的都市テルアビブを本拠とするようになり、今もテルアビブはイスラエルの芸術活動の中心地であり続けています。
1930年代の芸術は、20世紀初頭の西洋の芸術的革新、特にパリのアトリエから生まれた表現主義の影響を色濃く受けていました。モーシェ・カステル、メナヘム・シェミ、アリエ・アロークなどの画家の作品は、地元の景色やイメージを題材としながらも、現実を感情的かつ神秘的に歪曲して描きがちであり、10年前の物語風の要素は徐々になくなり、オリエンタルなムスリムの世界も完全にキャンバスから消え去りました。1930年代の中期には、台頭するナチズムに恐怖を感じた芸術家たちの移民に伴ってドイツの表現主義も紹介され、既に20年前にエルサレムに来ていたドイツ生まれの芸術家、アンナ・ティコやレオポルド・クラクウアーに加えて、ヘルマン・シュトルク、モルデカイ・アルドン、ジャコブ・シュタインハルトなどの画家たちも、エルサレムの風景や周辺の丘陵の主観的な解釈を行いました。こうした芸術家たちは、地元の芸術の発展に大きな貢献をしています。特に、ベツァレル美術学校理事のアルドンやシュタインハルトが同校にリーダーシップを与え、新世代の芸術家の成熟を促したことは有益でした。
第二次世界大戦中にパリと分断されたことや、ホロコーストのトラウマによって、モーシェ・カステル、イツハク・ダンジガー、アハロン・カハナなどの芸術家は、新たにカナンのイデオロギーを取り入れ、かの地の原住民と同化し、古代の神話や異教徒のモチーフを復活させることによって「新しいヘブライ人」を作り出そうとしました。また1948年の独立戦争によって、ハファタリ・ベゼムやアブラハム・オフェクなどの芸術家は、明確な社会的メッセージを持った過激なスタイルを取り入れました。
ですがこの時期に結成された最重要の芸術家集団は、「ニューホライズン」と呼ばれるグループであり、イスラエルの絵画を地域の特性や文学とのつながりから切り離し、現代欧州芸術の領域に移そうとしていました。このグループからは主に2つのトレンドが生まれました。まず、グループのリーダー的存在だったヨセフ・ザリツキーは、地元の風景の漠然とした断片と寒色系の色調を特徴とする叙情主義に向いました。このスタイルは、アビグロル・ステマツキーやイェヘツケル・シュトライヒマンなどに受け継がれています。
2つ目のトレンドは、幾何学主義やシンボルに基づくことの多い形式主義までの広範囲に及ぶ様式化された抽象主義であり、ルーマニア出身のマルセル・ヤンコ(パリで勉強し、ダダイズムの創設者の1人となりました)の作品に顕著に現れています。ニューホライズンのグループは、イスラエルの抽象芸術を正当化しただけでなく、1960年代初頭までにこの芸術を主流にまで押し上げました。
1960年代の芸術家は、ニューホライズングループの活動と1970年代の個人主義の模索の橋渡し役的存在となりました。シュトライヒマンとシュテマツキーは共にテルアビブのアブニ・インスティテュートで教鞭をとり、ラフィ・ラビ、アビバ・ウリ、ウリ・リフシッツ、レア・ニケルなどの第二世代の芸術家に大きな影響を与えました。こうした第二世代の芸術家たちは独自のイメージを求め、叙情的抽象主義の洗練された作品を良しとせず、外国の様々な表現主義、形象主義の抽象的スタイルを組み合わせて多元的な作品を作り上げました。
彼らは1950年代後期に設立された「グループ・オブ・テン」のメンバーでもあり、芸術における普遍主義的な傾向に異議を唱え、イスラエルの風景や個人を題材とする芸術に向かおうとしました。ニューホライズングループを取り巻いていた欧州のエリート的な雰囲気はグループ・オブ・テンにはなく、イスラエル生まれのイスラエル人である「サブラ」、パルマッハ世代で構成されていました。1960年代後半には、「リアリスト」の芸術家であるオリ・ライスマンやイツハク・マムブッシュがこのグループに加わりました。
ベザレル美術学校では、アルドンの影響が特にテーマや技術の面でアビグドル・アリカの作品にはっきりと表れています。アリカは、強い精神性を表すフォームで構成される世界を作り出しました。またアルドンの影響によって、ホロコーストや伝統的なユダヤの主題を髣髴とさせる象徴的テーマが復活し、ヨッスル・ベルグナーやサミュエル・バックのシュールレアリズムの作品に描かれました。ヤコブ・アガムのスタイルはこれとは全く異なり、視覚的な動く芸術のパイオニアとして、その作品はイスラエル国内外で頻繁に展示されています。
1970年代のミニマリズム的な芸術には、地元の抽象絵画の名残を感じさせる無形質の透明なフォームがつきものでしたが、ラリー・アブラムソンやモーシェ・ゲルシュニの作品には、美的感覚以外のアイデアが顕著に表されています。1980年代、1990年代の芸術家たちは、個人的実験であるかのように様々な素材や技術を1つに集めることによって、題材やスラエルの精神の意味を探し求め、またヘブライ語のアルファベットや人間のストレス、恐怖の感覚など、地元や世界の多様な要素に基づくイメージを追い求めました。今の傾向としては、ピンハス・コーエン・ガン、ダガニット・ベレシュト、ガビ・クラスマー、チビ・ジェーバ、ツビ・ゴールドシュタイン、ダビッド・レエブなどの作品に見られるように、イスラエル技術の定義を、その伝統的なコンセプトや素材を超えて拡大し、土着の文化の独自の表現として、また現代西洋芸術の一部としていこうとする取り組みが続けられています。